織田信長が有名になる前の1555年。
広島の宮島では、毛利元就と陶晴賢(すえはるかた)の間で厳島の戦いと呼ばれる壮絶な戦いが繰り広げられていました。
この戦いは聖域とされていた宮島(厳島神社)全体を戦場とした大規模なもので、戦国時代の三大奇襲戦と呼ばれています。
厳島の戦いの概要
日本の三大奇襲戦というのは、
- 厳島の戦い(毛利元就vs陶晴賢)
- 川越城の戦い(北条氏康vs上杉憲政)
- 桶狭間の戦い(織田信長vs今川義元)
の3つの戦いの事を言います。
この三大奇襲戦は全て少数の軍勢が奇襲攻撃で大軍を破ったという特徴があります。
毛利元就が圧倒的に不利な状況から勝利を収めた戦いとして有名で、この戦いを機に元就はいっきに勢力を拡大していくことになります。
厳島の戦いで毛利元就と闘ったのは陶晴賢(すえはるかた)という武将。
主君である大内義隆を裏切って、大内家の実権を握った人物でした。
一説によると毛利軍4000に対して陶軍の兵力は2万。
この状況で毛利元就は陶軍との戦いを決意するわけですが、まともに戦っては勝ち目がありません。
そこで考えたのが、何とかして陶の大軍を宮島(厳島)におびき出せないかということ。
宮島に大軍が上陸しても平坦な場所が少ないので大軍は身動きが取れなくなります。
そんな状況に追込んでいっきに殲滅しようというのが毛利元就の作戦でした。
毛利元就の立てた作戦
そこで毛利元就は宮島にあった宮尾城を攻撃して占拠し、改修や補強をして陶軍との戦に備えます。
そして、陶軍を宮島におびき出すための様々な作戦を決行します。
- 陶軍の忍びに、宮島に攻め込まれたら勝ち目がないという嘘の情報を流す。
- 自分の家臣をわざと裏切ったように見せかけ、敵を宮島に誘導させる。
- 愛媛県の水軍(海賊)に1日だけでいいので船を貸してほしい(助勢をしてほしい)と頼む。
この作戦が的中し、陶晴賢は大軍で宮島に渡ることを決めます。
宮島に渡った陶軍は塔の丘(現在の五重塔の辺り)に本陣を置き、宮尾城の攻撃を開始。
宮尾城は海岸にせり出した小さな砦のような城だったので、たちまち窮地に陥ります。
陶軍に気づかれないように嵐に紛れて地御前から出陣
その知らせを聞いた元就は毛利水軍の前線基地であった草津城を出陣し、夜の闇にまぎれて宮島に上陸します。
この時のルートは地御前から包が浦に向かうルート。
距離は短いですが天気はあいにくの暴風雨。
しかし、元就はこの状況の中で陶軍に気づかれないために、先頭の船にだけ松明を灯して渡海したと言われています。
無事に包が浦に上陸した元就は博打尾という尾根に登ります。
この博打尾は陶軍が本陣を置いた塔の丘を背後から突ける場所。
絶好の場所に布陣した元就は、夜明けと共に突撃を開始し、陶軍を大混乱に陥れています。
戦いの中で厳島神社を火災から守った武将
毛利軍の攻撃に不意を突かれた陶軍は、大軍のため身動きがとれず、まともに戦う事ができません。
そんな中、宮尾城の兵も一斉に攻撃を仕掛けてきたので、陶軍は両サイドからの敵の攻撃にさらされることになります。
立て直しが不可能とみた陶晴賢は大元浦へ敗走します。
この時、陶晴賢の家臣であった弘中多隆兼が毛利軍の追撃を防ぐために厳島の民家に火を放ちました。
コレをみた毛利元就の次男・吉川元春は、
『敵を逃しても構わない。しかし、厳島神社の社殿を焼失させてしまったとなれば末代までの恥。』
と、攻めて来る敵がいる中、消火活動を優先させています。
吉川元春、男気溢れる武将ですよね・・。
ちなみに、吉川元春は広島県出身のミュージシャン・吉川晃司さんのご先祖様になります。
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今ではのどかな雰囲気が広がる千畳閣や五重塔周辺。
約400年前に大きな戦があったなんて想像もできませね。
陶軍は総崩れとなり、陶晴賢は自害。
戦に勝った元就は対岸にある桜尾城に凱旋して首実検をおこない、晴賢の首を洞雲寺に葬っています。
今も宮島に残る宮尾城跡
現在の宮島に残る宮尾城跡。
小さな砦のような城ですが、急峻な崖の上に建てられていたことが分かります。
宮島のフェリー乗り場を下りると、すぐに宮尾城への登山道があります。
5分もあれば登れる小高い丘で、登山道もしっかり整備されています。
宮尾城のある山は要害残と呼ばれ、頂上には曲輪跡(くるわ:山を削って平坦地にした土地)があります。
今は埋め立てが行われ、周囲に建物が建っていますが、当時は海に囲まれた半島でした。
一段高くなった主郭と思われる場所から場内を見渡しても、それほど広いという印象はありません。
そのため、城というよりは砦に近いイメージではなかったかと思います。
宮尾城の最大の見どころは曲輪を分断する堀切。
山の尾根を分断して、曲輪から曲輪への移動を困難にしてあります。
堀切の下は通路にもなっていて、ここから海に出られるようになっています。
厳島合戦の際、毛利元就は熊谷信直という武将を援軍として宮尾城に派遣しています。
もしかすると、熊谷軍はこの通路を通って宮尾城の援軍に駆け付けたのかもしれませんね。
宮島桟橋から少し歩いた所にあり、今では花見のシーズンに多くの人が訪れる桜の名所になっています。
ここも塔の丘と同じく、普段は昔戦があったとは思えないような静寂に包まれています。
厳島の戦いの後に元就がとった行動
当時の宮島は聖地であり、月経の女性は島外に出なければいけないなど、血の穢れを持ち込んではならない場所でした。
やむを得なかったとはいえ、そんな場所で戦をしてしまった毛利元就。
元就は合戦の後に、厳島神社の社殿を海水で洗って清め、血の付いた土などを島外に全て運び出させたと言います。
しかしその後、毛利元就は再び厳島神社を血で穢してしまうことになります。
厳島の合戦の後、毛利元就の嫡男・隆元が和智誠春という武将の接待を受けた後に急死。
長男を失った悲しみからか、元就は隆元が和智誠春によって毒を盛られたのではないかという疑いを持ちます。
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そして、和智誠春と弟の元家を厳島に監禁。
監禁された和智誠春と元家は、隙をみて厳島神社の本殿へ逃げ込み、攻め込めば本殿を焼き払うと脅しをかけたとされています。
しかし、元就は本殿へ兵を派遣し、和智兄弟を討ち取っています。
再び厳島神社を血で穢してしまった毛利元就。
しかも、宮島全体を戦場とした厳島の戦いの時とは違い、今度は本殿の中での出来事です。
この事を深く受け止めた元就は社殿を再建。
現在の厳島神社の本殿はこの時に毛利元就によって建て替えられたものです。
ちなみに、厳島神社を取り囲む石垣の中にも、毛利氏の石垣職人が携わったと見られる特徴があります。
厳島神社を戦火に巻き込んでしまった毛利元就ですが、その後の対応で厳島神社を厚く信仰していたことがうかがえます。
毛利元就の手紙に書かれた厳島神社への信仰
毛利家は吉田の郡山城(安芸高田市)の小さな領主に過ぎませんでしたが、元就の代で大きく成長します。
元就は厳島の戦いをきっかけに大きく領地を広げることになりますが、その元就が不思議な縁を感じて深く信仰していたのが厳島神社でした。
厳島の戦いは、当時聖域とされていた宮島全体を巻き込んで行われました。
そして厳島の戦いで陶晴賢を倒した後、毛利元就は3人の子供に向けて教訓状(三子教訓状)を書いているのですが、その中に厳島神社の事を書いた条項があります。
要約すると、
私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあり、長い間信仰している。
折敷畑の合戦(厳島の戦いの前哨戦)の時も、厳島から使者が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、神意を感じ、奮闘した結果勝つことが出来た。
その後、厳島の要害山に砦を築こうと思って船を出した時に敵の軍船が三艘来襲し、交戦の結果多数の者を討ち取って、その首を要害山のふもとに並べた。
その時、私は、これが厳島での大勝利の前兆であると思い、厳島大明神のご加護であろうと安心することができた。
だから皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私もそれを願っている。
少し生々しい記述もありますが、この手紙は毛利元就直筆なので、当時の元就が厳島神社に対してどういう思いを抱いていたかが良く分かります。
大聖院の記事にも書きましたが、宮島に縁のある人(引き寄せられる人)というのは、大きく飛躍しているイメージがあります。
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