草津城は広島市西区草津にある城跡。

現在、周囲には多くの住宅が建っていますが、戦国時代はこの辺り一帯が海だったため、水軍の城としての役割を持っていました。

草津城の城主として有名なのは毛利元就の家臣で水軍を率いた児玉就方、児玉就英親子。

児玉就英は和田竜さんの「村上海賊の娘」に登場して注目を集めています。

「村上海賊の娘(マンガ版)」の中で、児玉就英が主人公の景(きょう)に、「お主には我が草津の城に来てもらう。」「この先、草津の城で暮らせ」という台詞があるのですが、草津の城というのがこの草津城の事です。

草津城の概要

草津城は行者山の尾根に沿って作られた城で、大きく3つの曲輪に分かれていました。

広島藩士の岡岷山(おか びんざん)が寛政9年(1797年)に描いた「都志見往来日記・同諸勝図」には、当時の草津城の様子がしっかりと描かれています。

引用:広島市立図書館 都志見往来日記・同諸勝図

現在は、JRや広電の線路で城跡が分断されるだけでなく、市街地化の影響もあって、先端の曲輪の遺構は失われています。

草津城跡には駐車場がないので、草津駅か草津南駅から歩いていくと便利です。

草津城跡の紹介

草津城の登山口はこのような感じ。

階段を上ってしばらく歩くと、草津城跡の石碑が見えてきます。

草津城の城主は毛利元就の家臣である児玉就方、就英親子。

元就が安芸武田氏を滅ぼした後に、武田氏の支配下にあった川内警固衆(水軍)を率いるために草津城に入城しています。

草津城は過去に発掘調査が行われていますが、調査がわずかな範囲に限られたため、どのような遺構があったか詳しく分かっていません。

そのため、城跡を歩いても遺構らしきものはあまり見つけることができません。

近代になって手が加えられている部分もあるので、当時の姿を想像するのはなかなか難しいです。

「村上海賊の娘」に登場する児玉就英の墓所

草津城の石碑から少し下ると墓所が見えてきます。

手前が児玉就英のお墓です。

五輪搭がいくつか集められているので、この辺りには戦国時代のお墓が沢山あったのではないかと思います。

児玉就方のお墓も近くにあったようなのですが、こちらは発見できずでした。