毛利隆元は毛利元就の嫡男として誕生し、毛利家の当主となった武将です。

今回は吉田郡山城にある毛利隆元の墓所や、安芸高田市高宮町にある逝去の地を紹介します。

安芸高田市高宮町佐々部にある毛利隆元逝去の地

毛利隆元は尼子攻めに加わるため、軍勢を率いて出雲に出陣。

吉田にある猿掛城を出て、佐々部という場所で和智誠春(わちさねはる)の接待を受けた後、体調を崩して翌日に41歳という若さで亡くなります。

この時、蓮華定院(れんげじょういん)というお寺を宿舎にしていたため、遺体は蓮華定院で荼毘にふされ、郡山城に葬られています。

そのため、広島県安芸高田市高宮町佐々部の蓮華定院があったとされる場所が「毛利隆元逝去の地」となり、供養碑が建てられています。。

供養碑の前には民家が建っているため、庭先を通らせてもらうことになります(一言断ってから通るようにしましょう)。

最期の地とされる場所は複数段の石垣で補強され、その上に供養碑が建っています。

昔は毛利隆元の墓所だと言われていた時期もありましたが、江戸時代に長州藩が調査を行い、墓所ではないという結論づけています。

ここはあくまでも隆元を火葬した場所であり、墓所は吉田郡山城内に作られたようです。

吉田郡山城にある毛利隆元墓所

現在、隆元の墓所は郡山城の山麓にありますが、実はこの墓所は明治時代に作られたもので、本来の隆元の墓所は場所が分からないままになっています。

実は、元は若くして亡くなったこともあり、江戸時代には存在自体が忘れられていた時期があります。

明治時代になると、毛利家の史跡の整備が行われるのですが、この時、隆元の菩提寺である常栄寺周辺の調査をしても、墓所を特定することはできなかったようです。

そこで、形だけでもという事で、常栄寺の裏手に新しく隆元の墓所が造られました。

毛利隆元暗殺の謎!死因は何?

では、毛利隆元の死因は何だったのでしょうか?

尼子攻めに援軍として向かっている途中で突然亡くなったため、大河ドラマでは「尼子の刺客に暗殺されたる」という描かれ方をしましたが、実際は食あたりだったのではないかと考えられています。

隆元の死を巡っては、接待をした和智誠春や隆元の側近だった赤川元保が毒殺を疑われて処罰されていますが、赤川元保については、のちに無罪であったことが分かっています。

毛利隆元の評価が低いのはなぜ?

毛利隆元は父親である毛利元就と、吉川元春、小早川隆景といった優秀な弟たちの陰に隠れて、世間ではあまり評価が高くはありません。

ただ、隆元は派手さはなくとも、堅実に仕事をこなしていて決して凡将ではありません。

特に内政に関しては、父親や弟達にも勝るとも劣らない能力を持っていたのではないかと、近年、再評価されてきています。

Mōri_Takamoto

ではなぜ、あまり評価が高くなかったのか?

41歳という若さで父親や弟達より先に亡くなった事も影響していると思われますが、一番は隆元が残した手紙の文面にあると思います。

実は隆元の手紙や覚書が現代に残っているのですが、手紙からは優秀な父親と弟の間で劣等感に悩まされる隆元の苦悩が分かります。

毛利家文書に残されている手紙の中から、特徴的な部分をいくつか抜き出して簡単に訳してみます。

  • 養子に出た弟達(元春・隆景)が、吉田に戻ってきても、自分たちの家のことばかりですぐに居城に帰りたがる。
  • 私をのけ者にして、2人(元春・隆景)だけで仲良く話をしている。
  • 相談事があっても当主の私ではなく元就に直接相談するので、自分が見限られているようで腹が立つ。
  • 自分から歩み寄っても避けられる。
  • 自分は無才、無器量なので毛利は自分の代で終わるだろう。
  • 元就は名将であるが、名将の下には必ず不幸な子が生まれる。それが私だ。

と、ネガティブな言葉のオンパレードです。

戦国武将というのは、現代の私たちとは考え方も価値観も違うというイメージがありました。

しかし、隆元の書状には私たちが抱える悩みと同じような事が書かれています。

文末には、この手紙は読んだら燃やしてほしいと書かれていますが、まさか400年以上経った現在も手紙が残っていて、多くの人に公開されるとは思ってもみなかったでしょうね。