毛利元就の厳島神社への信仰と本殿での悲劇!!

戦国時代に中国地方を制覇した戦国武将・毛利元就。

 

毛利家は吉田(安芸高田市)の小さな領主に過ぎませんでしたが、元就の代、一代で大きく成長します。

 

元就は宮島を舞台に行われた厳島の戦いをきっかけに大きく領地を広げることになりますが、その元就が不思議な縁を感じて深く信仰していたのが厳島神社でした。

 

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毛利元就と厳島神社

 

三子教訓状

毛利元就と陶晴賢の間で行われた厳島の戦い。

 

この戦いは、当時聖域とされていた宮島全体を巻き込んで行われた西国の桶狭間と呼ばれる合戦でした。

 

そして厳島の戦いで陶晴賢を倒した後、毛利元就は3人の子供に向けて教訓状(三子教訓状)を書いているのですが、その中に厳島神社の事を書いた条項があります。

 

要約すると、

 

私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあり、長い間信仰している。

折敷畑の合戦(厳島の戦いの前哨戦)の時も、厳島から使者が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、神意を感じ、奮闘した結果勝つことが出来た。

その後、厳島の要害山に砦を築こうと思って船を出した時に敵の軍船が三艘来襲し、交戦の結果多数の者を討ち取って、その首を要害山のふもとに並べた。

その時、私は、これが厳島での大勝利の前兆であると思い、厳島大明神のご加護であろうと安心することができた。

だから皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私もそれを願っている。

 

少し生々しい記述もありますが、この手紙は毛利元就直筆なので、当時の元就が厳島神社に対してどういう思いを抱いていたかが良く分かります。

 

大聖院の記事にも書きましたが、宮島に縁のある人(引き寄せられる人)というのは、大きく飛躍しているイメージがあります。

 

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厳島神社本殿

当時の宮島は聖地であり、月経の女性は島外に出なければいけないなど、血の穢れを持ち込んではならない場所でした。

 

やむを得なかったとはいえ、そんな場所で戦をしてしまった毛利元就。

 

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元就は合戦の後に、厳島神社の社殿を海水で洗って清め、血の付いた土などを島外に全て運び出させたと言います。

 

しかしその後、毛利元就は再び厳島神社を血で穢してしまうことになります。

 

厳島の合戦の後、毛利元就の嫡男・隆元が和智誠春という武将の接待を受けた後に急死。

 

長男を失った悲しみからか、元就は隆元が和智誠春によって毒を盛られたのではないかという疑いを持ちます。

 

そして、和智誠春と弟の元家を厳島に監禁。

 

監禁された和智誠春と元家は、隙をみて厳島神社の本殿へ逃げ込み、攻め込めば本殿を焼き払うと脅しをかけたとされています。

 

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しかし、元就は本殿へ兵を派遣し、和智兄弟を討ち取っています。

 

再び厳島神社を血で穢してしまった毛利元就。

 

しかも、宮島全体を戦場とした厳島の戦いの時とは違い、今度は本殿の中での出来事です。

 

この事を深く受け止めた元就は社殿を再建。

 

現在の厳島神社の本殿はこの時に毛利元就によって建て替えられたものです。

 

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ちなみに、厳島神社を取り囲む石垣の中にも、毛利氏の石垣職人が携わったと見られる特徴があります。

 

厳島神社を戦火に巻き込んでしまった毛利元就ですが、その後の対応で厳島神社を厚く信仰していたことがうかがえます。

 

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