中国地方を制覇した毛利元就の次男・吉川元春。
生涯の戦績は86戦64勝12引分けで無敗の戦国武将として、毛利家の中国地方の統一に貢献しました。
広島県を代表するミュージシャン・吉川晃司さんのご先祖様としても有名ですね。
北広島町にある吉川元春館跡は、備中高松城の戦いが終わり、長男の元長に家督を譲た元春が隠居所として建てた館の跡です。
館跡は発掘調査が行われ、庭園やトイレ、建物の跡が確認されています。
館の前面は石垣、側面は土塁を築き大規模な戦国時代の館であったことを感じることができる史跡で、館の裏には吉川元春・元長の墓所があります。
吉川元春館跡の全体像を写真で紹介
吉川元春館跡の隣には「戦国の庭歴史館」があり、出土品や発掘調査の結果を分かりやすく展示してあります。
今回は復元模型も照らし合わせながら吉川元春館跡を紹介していきたいと思います。
下の写真が吉川元春館跡の復元模型です。
石垣と土塁で囲った広い敷地の中に、沢山の建物が建てられているのが分かります。
そしてこちらが、現在の吉川元春館跡の全景写真。
正面の石垣や土塁、空堀や庭園跡が残っています。
また、当時の台所が復元されています。
吉川元春館跡の見どころ
吉川元春館跡は、元春が築城した日野山城の裏手に位置します。
日野山城に移るまで吉川氏が本拠地にしていた小倉山城から車で15分くらいの場所です。
館跡には戦国の庭歴史館があるため、駐車場も広々。
駐車場の目の前には、館を作るための石を切り出した石切り場の跡が残っています。
正面入り口にある「吉川元春館跡」の石碑。
この石碑は発掘調査後に建てられたものですが、少し手前には、吉川元春の墓所への道筋を示す古い石碑が建っています。
吉川元春館正面の石垣と門跡。
写真では迫力が伝わりづらいですが、長さ80m、高さ3m、中央に2.6mの門跡がある、大規模な石垣です。
吉川氏(毛利氏)は「石つき之もの共」と呼ばれる石垣造りの職人集団を抱えていました。
「石つき之もの共」が造る石垣は、縦に大きな巨石を一定の間隔に置き、その間に横長の石を積んでいくという特徴があります。
この石の積み方は、厳島神社にある石垣でも見ることができます。
来客用の正式な玄関とされていた正面の門跡。
横には勝手口として使われていた門の跡もあります。
勝手口を内側から見た様子。
この写真からも分かるように、館の周囲は土塁で囲まれています。
土塁の外には自然の地形を利用した堀が設けられ、館の防御性を高めています。
堀の説明版と発掘調査の様子。
館跡はとても広い敷地。
この敷地に台所や住居、馬小屋やトイレ、庭園跡などがありました。
こちらは復元された台所。
中も当時の建物を忠実に再現してあります。
2つ並ぶのは職人が調理をしていたとされる部屋。
この部屋には調理用の囲炉裏が造られています。
反対側には竈(かまど)も復元されています。
敷地の中に、石垣を積んで1段高くしてある区画があります。
ここから安産のお守りと考えられる土製品が出土しているので、吉川元春や長男・元長の妻が居住していたのではないかと言われています(元春の妻は三入高松城主だった熊谷信直の娘)。
正面にあるのが門の跡で、奥には建物の礎石が見えます。
この場所には築地塀と引き戸の門があったようです。
そして吉川元春館跡の最大の見どころが庭園跡。
当時はこのように室内から眺めるようになっていいたのですが、この庭園がそのままの形で残っています。
発掘調査が行われる前は土に埋もれていたため、いくつかの石が見えていただけでしたが、調査によって石組みの池のあとが発見されています。
こちらは池につながる水路。
こちらは、別の角度からも庭園が眺めれるように庭を拡張した部分だそうです。
そして、庭園跡から少し離れた場所にあるのがトイレの跡。
現在埋まっている桶は復元したものですが実物は隣の資料館に展示されています。
他にも呪いの井戸と呼ばれる井戸跡も発見されています。
発掘当時はもう少し石組みがきれいに見えていたのですが、今では草が茂って埋もれている感じ。
この井戸は石で蓋がされていて、中からお経の書かれた木の板が見つかっているため、何らかの理由で、呪術を使って封印されたようです。
下記の写真は館の北側にある土塁の跡。
下を眺めると、かなりの高低さがあり、簡単には攻め込めない造りになっていることが分かります。
館の奥には吉川元春、元長の墓所に続く道があります。
吉川元春・元長の墓所
館跡の裏手には吉川元春と長男である元長の墓所があります。
この付近は元春の菩提寺である海応寺の跡で、明治になって改修された墓所です。
左の墓石が元春、真ん中の墓石が元長のもの。
お墓の形式は土饅頭と呼ばれるもので、毛利元就のお墓でも見られる形式です。
このお墓から少し離れたところに「古墓」と呼ばれるものが残っています。
おそらく、こちらが改修前のお墓で、明治時代に改修が行われた際に現在の状態になったのではないかと思います。
この館は元春の存命中には完成せず、三男の吉川広家が完成させました。
しかしその後に広家も月山富田城に移ったためわずかな期間しか使用されることはありませんでした。
その後は荒廃していき、20年くらい前までは館跡は田畑となり石垣の間を道路が通っていました。
今回写真は載せませんでしたが、館の向かいにある万徳院(吉川元長の菩提寺)も発掘調査が行われ、こちらでも見事な石垣や庭園跡を見る事が出来ます。
あわせていきたい!吉川元春館跡周辺の史跡
万徳院跡
吉川元春館跡から車で5分くらい山道を走るとたどり着くのが吉川元長の菩提寺である万徳院。
この場所は日野山城の搦め手(裏の入口)にあたります。
万徳院にも石垣や庭園の跡があるので、吉川元春館跡に訪れた際はセットで観光してみてください。
松本屋敷跡
吉川元春館跡と道を挟んで反対側(北西)にあるのが松本屋敷跡。
ここは吉川元春館ができるまで、元春の妻が住んだとされる場所で、高さ約2m、東西約70m、南北約45mの石垣が残っています。
言ってみれば、元春館の小規模バージョン。
こちらは発掘調査が行われていないので、かなり雑な扱い。
貴重な遺構が埋まっているかもしれないのに、発掘せずに放置しるしかないというのは何とも残念です。
今田氏城館跡
北広島町今田には、今田氏城館と呼ばれる史跡があります。
ここにも元春館と同じく、館の石垣と庭園跡が残っています。
石垣は小規模ながらも見事なもの。
今田氏が没落してからは吉川常高が城館を継承し、日野山城の支城として役割を持っていたようです。
館跡に残る庭園跡は吉川元春館と似たような造りで、それをもっとコンパクトにしたイメージ。
何となく、同じ職人集団がデザインしたのかな?という感じがします。
今や完全に薮化していて、遺構が確認できないのが残念です。