吉田郡山城は広島県安芸高田市にある毛利元就が本拠地とした山城です。

現在、建物などは残っていませんが、所々に当時の痕跡を見ることができます。

今回は吉田郡山城跡の場所や見どころなど、写真を交えてご紹介していきます。

吉田郡山城の概要

吉田郡山城は安芸高田市にある毛利氏の居城です。

最初は尾根の先端に築かれた小規模な山城でしたが、毛利元就が郡山全山に拡張して大規模な山城へと変貌し、孫の輝元が広島城を築城するまでは毛利氏の本拠地として使用されていました。

江戸時代の一国一城令で取り壊しが行われ、その後に起こった島原の乱の影響で、城跡が徹底的に破却されたため、現在では建物は残っていません。

また、近代になって毛利家の墓所を山麓に移動させた時に、城跡の崩された石垣の石が使われたため、主郭部の石垣も消失した部分が多いようです。

ただ、それでも土塁や堀切、一部の石垣などを確認することができます。

郡山城中心一円図 吉田郡山城案内板より

吉田郡山城は戦国時代の山城なので、一般の方がお城と聞いてイメージする姫路城や熊本城のような近世城郭と箱となります。

そのため、砦とお城の中間のようなイメージを持っておくといいと思います。

吉田郡山城跡に訪れて、その場所を確認してもらえば、中国地方一帯を支配した毛利元就がどれだけ小さな田舎のお城からスタートしたのかという事が良く分かります。

吉田郡山城の見どころを紹介

御里屋敷跡にある「三矢の訓跡」の石碑と毛利元就像

吉田郡山城お訪れた際に、最初に立ち寄りたいのが御里屋敷跡。

ここは平素の居館跡があったと言い伝えがある場所です。

吉田郡山城麓の御里屋敷跡

試掘調査の結果、遺構や遺物が見つかっていないため、館の位置は再検討されているようですが、昔はこの御里屋敷で毛利元就が三人の息子に「三本の矢の教え」を説いたと伝えられていたため、「三矢の訓跡」の石碑が建てられています(実は三本の矢の教えも創作)。

※戦国武将の居館は「吉川元春館跡」を参考にしてもらうとイメージが湧きやすいと思います。

三矢の訓の石碑

また、甲冑姿の毛利元就の像も御里屋敷跡にあります。

毛利元就の像

多少つくりは粗めですが、迫力があってカッコいいです。

毛利元就の像

作者が同じなのか、枝野宮八幡にある吉川元春像とつくりが似ています。

毛利元就火葬場跡

毛利元就像のすぐ後ろにあるのが郡山城跡の碑。

吉田郡山城入口の石碑

この石碑のすぐ横に毛利元就の火葬場跡への案内表示があります。

30mくらい先にあるのが、この火葬場跡とよばれる場所。

毛利元就火葬場跡

元就はここで荼毘にふされて、墓所に葬られています。

あくまでも伝承地で、本当にここで火葬されたかどうかは詳しく分かっていないそうです。

毛利元就火葬場跡

木の根元に宝篋印塔や五輪搭のパーツのようなものがあるのですが、これは近くで発見された墓石が集められたものではないかと思います。

毛利元就火葬場跡にある墓石

大通院谷遺跡

郡山城の駐車場がある部分は大通院谷と呼ばれ、砂防公園として整備されています。

吉田郡山城の石碑

この部分は発掘調査が行われていて、郡山城の内堀や建物跡など、たくさんの遺構が発見されています。

砂防公園を上がっていくと、毛利元就墓所の入口に駐車場があるので、ここに車を止めて周辺の史跡をめぐるのがおすすめです。

この駐車場に郡山城の内堀と大通院谷遺跡の説明板があります。

郡山城大通院谷の説明板

内堀は薬研堀と呼ばれるV字型の堀で、手前の方は土砂で埋まっているため、堀だと認識するのが難しいです。

奥に進むと、まだまだ角度のついた状態で残っているので、内堀を見る際は少し奥の方に進んでみるのがおすすめです。

郡山城の内堀

毛利隆元墓所と菩提寺の常栄寺跡

内堀跡の横の階段を上ると毛利隆元の墓所と常栄寺跡があります。

階段を上がって右に進むと常栄寺跡。

二段に分かれた曲輪があり、ここに隆元を弔うために元就が建てた常栄寺がありました。

そして、反対側の階段を上ると毛利隆元の墓所があります。

この墓所は明治時代になって整備されたもので、実は隆元が葬られているお墓はどこにあるのかはっきり分かっていません。

隆元は若くして亡くなったこともあり、存在や功績があまり注目されていませんでした。

そのため、人々から語り継がれることが少なく、墓所も所在不明になってしまったようです。

戦国時代は墓石に名前を彫る習慣がなく、さらに毛利家は樹木葬が多いので、言い伝えがあったり、後世の人が整備し続けないと、どれが誰のお墓なのか分からなくなるんですね。

1563年、隆元は尼子攻めに加わるために出雲に向かっていましたが、その途中で備後の国人領主の和智誠春の接待を受けた後に急死しています。

安芸高田市高宮町佐々部にある蓮華常院跡には隆元逝去の地として石碑が建てられています。

洞春寺跡と元就の兄・興元、毛利家歴代当主の墓所

毛利元就の墓所入口にある鳥居をくぐってから5分程度歩くと、毛利元就の墓所の石碑が見えてきます。

ここは元就の菩提寺であった洞春寺というお寺があった場所。

大きく二段に分かれていて、下段には元就の兄・興元や歴代当主の墓所があります。

歴代当主の墓所は元々ここにあったものではなく、郡山城下にあったそれぞれの墓を明治時代になって移転させたものです。

一番手前は毛利元就の兄で、若くして亡くなった興元の墓です。

毛利元就の墓所と百万一心の石碑

毛利元就の墓所は洞春寺跡の一段高くなった場所にあります。

たくさんの灯篭が寄進され、入口は毛利家の家紋の入った扉で閉ざされています。

こちらが元就のお墓。

墓標としてハリイブキという木が植えられていましたが現在は枯れてしまっています。

墓所にある案内板。

そして、元就墓所の向かいには『百万一心』と刻まれた石碑があります。

これは毛利元就が郡山城を拡張する際、姫の丸の石垣の中に人柱の代りに埋めたとされるもののレプリカ。

百万一心碑は幕末に長州藩士の武田泰信という人が郡山城に登り、姫の丸で百万一心と刻まれた石を見つけたとされるのが始まりで、泰信は拓本を取って持ち帰ったとされています。

ただ、郡山城を拡張した時の記録には百万一心碑についての記載がなく、実物も見つかっていないため、信憑性に疑問が持たれます。

吉田郡山城に登城する時のモデルルート

吉田郡山城にはいくつかの登山ルートが存在しますが、今回は大手道と思われる清神社、郡山公園からの登山ルートを紹介します。

清神社~郡山公園

最初は郡山の麓にある清神社からスタートです。

清神社は郡山城築城以前からあるとされる神社。

境内には、大河ドラマに登場した毛利元就の養母・杉の方を祀る椙若社もあります。

清神社から郡山公園まで移動。

ここから郡山城への登山道を進みます。

登山道はこのような感じ。

きれいに整備されているので比較的登りやすいです。

本城跡と毛利隆元の屋敷があった尾崎丸

しばらく進むと、尾崎丸と旧本城の分かれ道があります。

今回は一度、旧本城へに向かってから、尾崎丸を目指します。

頂上を目指したい場合は、そのまま尾崎丸方面へ進みましょう。

旧本城へは、一度、尾根を下っていくことになります。

途中には、堀切で尾根を分断してある箇所があります。

5分くらい歩くと旧本城へ到着。

ここは元就が郡山城全山に拡張する前の本丸部分で、広い曲輪があります。

郡山の一部を使った、小規模な山城という感じで、元就以前の毛利家は小さな城の小領主でしかなかったことが分かります。

一度来た道を戻って尾崎丸へ。

尾崎丸は毛利隆元の館があったとされる場所で、複数の曲輪が残っています。

隆元は最初、旧本城に住んでいたようですが、元就のいる山頂までが遠いので、この尾崎丸に屋敷を移したという経緯があります。

旧本城よりも高い場所にあり、スペースも広いので、隆元がこの場所に屋敷を求めたのも分かる気がします。

そして、背後にあるのが大きな堀切。

今はかなり埋まっていますが、実際はもっと深く堀が切ってあり、有事の際には尾崎丸からの侵入を防げるようになっていたものと思われます。

これは堀切を横から見た図で、左が尾崎丸、右側が本丸方面になります。

当時はこの堀がもっと深く掘られていて、木橋のようなものを設けて行き来していたのではないかと思います。

蓮池の跡がのこる満願寺跡

尾崎丸を抜けて満願寺跡を目指します。

満願寺に行くまでの登城路は、側面から攻撃ができるように、左側の段の上に兵士が溜まれる曲輪が設けられています。

満願寺は郡山城が築城される前から存在していたお寺で、元就が郡山城の拡張工事をした際に、城内に取り込まれています。

境内には2つの蓮池の跡が残っています。

昔はどちらの蓮池もハッキリと遺構が確認できたのですが、今は土砂崩れや木々の堆積によって、すっかり埋もれてしまっています。

満願寺跡は池の水の影響で全体的に地面がぬかるんでいたり、猪が地面を掘り返したりすることで、建物の礎石が浮き出るなど、年々、遺構の保存状況が悪化しているようです。

敵を攻撃しやすいように配置された勢溜の壇

満願寺から頂上を目指して進むと、左側に2mくらい高い曲輪があることが分かります。

これは勢溜の壇と呼ばれる曲輪で、細い登城路を一列になって登ってくる敵に対して、側面攻撃ができるように造られています。

勢溜の壇は縦に長く、登城路に沿っているため、防御側は高い場所から有利に攻撃することができます。

勢溜の壇から登城路を見下ろすとこのような感じ。

木がなければ、登ってくる遠くの敵に対して弓や鉄砲で攻撃することができます。

また、登城路を曲げて進行方向が変わる部分は、側面だけでなく背後からも攻撃できるようになっています。

攻める側からするとこのようなアングル。

上から弓や鉄砲で撃ちかけられると思うと恐怖です。

勢溜の壇は郡山城の遺構の中では地味で、あまり注目されることはありませんが、戦国時代の山城の防御性の高さが実感できるおすすめポイントです。

他にも、急峻な一本道の真横に曲輪を設けるなど、城を守る工夫が随所に見られます。

このような造りは、毛利元就の三男・小早川隆景が築城した新高山城でも見られるので、新高山城には郡山城の構造も取り入れられているのではないかと思います。

破城の痕跡が残る御蔵屋敷跡

次に見えてくるのは御蔵屋敷と呼ばれる曲輪。

御蔵屋敷の周囲はたくさんの石が散乱しているため、当時は石垣で囲われていたことが分かります。

御蔵屋敷は二段に分かれていて、上段の曲輪を形成していた石垣も全て崩されています。

御蔵屋敷が主郭部への侵入を防ぐ最後の防衛拠点になるため、厳重に守りが固められていたことが分かります。

基本的に御蔵屋敷の石垣はほとんど崩されていますが、上段に続く道の途中に、通路を形成していたと思われる石垣が残っています。

近年発見された釣井の壇の石垣

御蔵屋敷の奥にあるのが釣井の壇。

ここには石組みの井戸が残っています。

釣井の壇の見どころは、背後の斜面に残る石垣。

昔はこの石垣の存在は知られていませんでしたが、樹木が伐採されたことで、とてもよく見えるようになっています。

当時は石垣を高く積む技術がなかったため、一度通路を設けて二段で石垣が積んであることが分かります。

郡山城の中ではかなりきれいに残っている石垣なので、忘れずにチェックしてみてください。

百万一心と彫った石を埋めたとされる姫の丸の段~厩の段

本丸の北側にあるのが姫の丸跡。

ここは百万一心と刻まれた石が発見されたとされる場所です。

ただ、姫の丸から本丸を見上げても石垣の痕跡らしきものは見ることができません。

もともと本丸の北側は石垣は築かれていなかったようです。

姫の丸の奥にあるのが厩の壇。

ここは馬屋があったとされている場所です。

破壊された石垣が残る三の丸

御蔵屋敷と同じく、石垣で囲まれていた曲輪が三の丸。

島原の乱の後に崩されたと思われる石が無数に転がっています。

一見すると石が転がっているだけのように見えますが、一部に当時の石垣の下の部分が残されていて、間違いなく三の丸の斜面が石垣で形成されていたことが分かります。

写真では分かりにくいですが、残っている石垣の前が三の丸へ上る通路になっているため、ここの石垣も高石垣ではなく、二段に分かれた石垣であったことが想像できます。

その他にも、木の根元などに残された石垣を見ることができます。

三の丸は城内最大の曲輪で、石塁や石垣で3つの区画に分けられています。

三の丸は木が多く、枝や枯葉などで埋もれていますが、石塁ははっきりと確認することができます。

三の丸からは瓦が発見されることがある(本丸や二の丸からは発見されない)そうなので、発掘調査が行われると、面白い発見がありそうです。

木を切って整備をすれば石塁の全容もはっきりするので、発掘調査が待たれるところです。

そして、三の丸から一段上がると二の丸があります。

二の丸から三の丸を見下ろすと、とても広い曲輪であることが分かります。

個人的には重臣が集まって評定を行うような、公的な建物があったのではないかと思っています。

石列で囲まれた二の丸

二の丸は東西36m×南北20mの曲輪。

二の丸の下にも石が散乱しているので、三の丸と同じく石垣で囲まれた曲輪だったことが分かります。

麓の毛利元就墓所の改修工事の際には、この二の丸の石を運んだと記録されています。

二の丸の特徴は周囲を石列で囲まれていること。

曲輪を囲むように、石が並べられているのが分かります。

昔ははっきりと石列を確認することができたのですが、今は石列が崩れてきている部分があり、年々、遺構が確認しづらくなっている感があります。

二の丸から一段上がった場所が本丸なのですが、本丸に続く通路にも石列があるので、もしかすると本丸も一部で石垣が使われていたのかもしれません。

元就が暮らしていたとされる本丸

本丸は御殿があったと思われる平面な土地と、櫓台状の土地の二段に分かれています。

書状などに、毛利元就は郡山城の「嶝(かさ:頂上の意味)」で生活していたと書かれているので、本丸や二の丸が元就(輝元)の居住スペースだったのではないかと思います。

一段高くなった櫓台には天守閣があったとも言われていますが、これは何の根拠もないそうです。

現地を訪れてみても、あまり天守閣があったという雰囲気は感じません。

どちらかというと、本丸や二の丸よりも三の丸の方が厳重に作られている感じがするので、

  • 本丸と二の丸→元就や家族の私的な居住スペース
  • 三の丸→家臣が集まる公的な対面スペース

のような役割ではなかったのかと思っています。

櫓台から本丸下段や二の丸を眺めると、とても質素な曲輪であることが分かります。

最高所の櫓台は、本当に櫓を1つ建てたられるくらいのスペース。

仮に天守閣が建てられていたとしても、とてもシンプルで小型のものだったと思われます。

吉田郡山城が抱える課題

吉田郡山城が抱える課題は3つあると思っています。

それは、次の3つです。

  • 未だに主郭部の発掘調査が行われていないこと
  • 抜本的な史跡の活用方法が見いだせていないこと
  • 自然災害などによる遺構の棄損が著しいこと

「史跡毛利氏城跡保存活用計画 」によると、過去に発掘調査が行われる計画があったようですが、発掘調査をしてもその後の整備が困難という理由で中止になり、山上の主郭部は未だ発掘調査が行われていません。

平成3年(1991),千代田町の万徳院跡から事業を開始し,吉川元春館跡,小倉山城跡と続き,郡山城跡は平成 13年(2001)から事業開始とした。ところが県による吉川氏城館跡の発掘調査が一巡した平成 12 年(2000),吉田町は県が翌 13 年(2001)から郡山城跡の発掘調査を実施しても,その後の史跡整備は困難との判断に至り,事業計画の見直しが行われた。このため,事業継続中の吉川氏城館跡の史跡整備は当該町が継続するが,郡山城跡については事業に着手しないこととなった。以後,「中世城館遺跡保存整備事業」は,中断することになり現在に至っている。

史跡毛利氏城跡保存活用計画

そして、吉田郡山城は樹木の成長や土砂崩れなどにより、遺構の棄損が年々進んでいる状況です。

特に顕著なのが土砂崩れで、遺構が崩れたり埋まったりする光景を目にすることがあります。

城跡の遺構保存に関しては、現状維持が基本で、抜本的な史跡の活用方法が見いだせていません。

草刈りをはじめとした維持管理に努めながら,原則として,現状保存するとともに,土砂流出によるき損が激しい箇所については,その復旧を図る。
確認されている礎石や石列については,必要に応じて保存対策を講じるとともに,草刈りや清掃活動,園路,説明板の整備においては,石垣等を構成していた石材の現状保存及び地下遺構を含め遺構の保存に留意する。
また,樹木が石垣や切岸,地下遺構をき損している場合,又はその恐れがある場合には,防災や景観に留意しながら,伐採・抜根を検討する。
なお,三の丸跡,御蔵屋敷の壇,釣井の壇等における石垣及びそれを構成していた石材,裏込石については,江戸時代初期の破城の歴史を体感できるよう,安全確保に留意しながら,崩落している現状を保存する。ただし,今後,崩落が生じた場合,又はその恐れがある場合には,抜本的な対策を含め,その保存・整備を検討する。
満願寺跡の露出した遺構については,獣害による破壊の防止を図る。
その他の郭については,原則として現状保存を図る。

史跡毛利氏城跡保存活用計画

毛利家のライバルだった尼子氏の居城・月山富田城はとても上手に復元整備を行い、歴史雑誌が行った企画の中で、全国158の城の中で唯一の満点評価を得るまでになっています。

土砂崩れのリスクがあるので簡単にはできませんが、やはり人気のある城跡は木を伐採して、曲輪や石垣の遺構がよく分かるようにしてあり、眺望も良くなっています。

毛利元就の知名度や吉田郡山城のポテンシャルは月山富田城に負けていないと思うので、貴重な歴史資産を活用できるよう、安芸高田市には頑張ってほしいですね。

吉田郡山城跡へのアクセス方法と駐車場

吉田郡山城跡は広島市内から車で約1時間30分ほど。

国道54号線を松江方面にひたすら北上していけば到着します。

安芸高田市歴史民俗博物館や大通院谷、毛利元就墓所入口にも駐車場があります。

郡山城の登山にかかる所用時間はゆっくり巡って1時間30分くらいです。

城名吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)
所在地広島県安芸高田市吉田町吉田
主な城主毛利元就、毛利隆元、毛利輝元
駐車場大通院谷、元就墓所入口にあり
所要時間ゆっくり遺構を見て回って1時間~1時間30分
登山難易度★★★☆☆(普通)