1517年に北広島町にある有田城を巡って、武田元繁と毛利元就の間で戦が行われました。
この戦いは有田中出の戦い(有田合戦)と呼ばれ、毛利元就が少数の兵で敵の大将・武田元繁を討ち取ったことから「西国の桶狭間」とも呼ばれます。
今回は有田中出の戦いの舞台となった有田城を紹介します。
有田城に登ってみた
有田城は山県郡北広島町有田にある小さな山城。
「道の駅 舞ロードIC千代田」から車で5分くらいの場所にあります。
八重東小学校の後ろにある山で、登山口(有田八幡宮の近く)には駐車場も完備されています。
とても小規模な山城のため、曲輪(平坦なスペース)は狭め。
普段は麓で生活し、戦の時だけ城に籠るような、戦国時代の典型的な山城といった感じです。
駐車場に車を止めて頂上までは10分くらいです。
登山道も整備されているので、城跡までは気軽に登れます。
しばらく歩くと広けた場所に到着。
ここが有田城の三の丸になります。
きれいに整備されていて、案内板も設置されています。
有田城の戦いは大内義興から尼子経久に乗り換えた武田元繁と、大内方から援軍として駆け付けた毛利元就の戦いでした。
戦いには志道広良、桂広澄、井上元兼、福原広俊など、大河ドラマにも登場した元就の初期の重臣が参戦しています。
三の丸には籠城の際に米を保存しておく蔵があったのか、焼けた米が出土する場所があります。
昔は有田合戦の時に焼けた米と言われていたようですが、現地を訪れてみると、城の規模や合戦の内容からして、有田城の戦いで焼けた米ではないような気もします。
さらに進むと二の丸跡。
二の丸跡の横にある5mくらいの小山を登ると、本丸に到着します。
本丸もスペースは広くないので、小屋のような建物が建っていた程度ではないかと思います。
本丸から二の丸を見下ろすと、高低差はあるものの比較的簡単に登れる構造であることが分かります。
本丸から堀切を隔てて茗荷丸があり、ここに櫓台のようなものがあったのではないかと思います。
茗荷丸からは千代田の町が一望できます。
有田合戦では、援軍に駆け付けた毛利元就や吉川元経の軍が、武田方の有力武将を討ち取っています。
武田元繁を始め、敵方の武将の墓(戦死の地)が見渡せるので、城の目の前で激戦があったことが想像できます。
有田合戦に関する史跡
ここからは有田合戦に関する史跡を紹介します。
武田元繁戦死の地
有田城の麓に又内川という川があり、ここに武田元繁戦死の地の石碑が建っています。
武田元繁は安芸国の守護で、安佐南区の武田山にある銀山城の城主でした。
元繁が戦死した場所に関しては諸説あるそうですが、ここがそうだとしたら有田城は目と鼻の先。
かなり近くまで大将である元繁が攻め込んでいたことになります。
また、大河ドラマ「毛利元就」では、武田元繁が大きな川を馬で渡る場面がありましたが、実際の又内川は小川のような感じ。
今は川というよりも溝のようになっているので、大河ドラマのイメージとは大きく異なるかもしれませんw
己斐宗瑞の墓(戦死の地)
有田城から少し離れた田んぼの中にあるのが己斐宗瑞のお墓。
己斐宗瑞は武田元繁に従って有田城攻めに参戦していました。
元繁が討ち取られた翌日、毛利軍に大将の弔い合戦を挑み討ち死にしたとされています。
土を持った塚のような場所に子孫の方が墓石と石碑を建てられています。
墓は比較的新しいもので、塚だけが今に残っているというのは考えづらいので(荒廃して所在が分からなくなる)、お墓の前に置いてある石が墓石として使われてたのかな?と想像したりもしました。
熊谷元直の墓(戦死の地)
熊谷元直は三入高松城主で、吉川元春の義父となる熊谷信直の父親です。
有田合戦には武田元繁に従って、武田方として毛利軍と対峙していました。
戦死の地と伝えられる場所に、子孫の方がお墓を建てられています。
熊谷元直、己斐宗瑞は決して有名な武将ではありませんが、子孫の方が墓所など形の残るものを作って語り継がれることで歴史に名が残っていると考えると、なにか形にして先祖を弔うことが大切だと気付かされます。
熊谷氏の墓所は安佐北区可部の観音寺跡にあります。
有田城跡の情報
名称 | 有田城跡 |
住所 | 広島県山県郡北広島町有田 |