安佐南区の武田山に登山!歴史マニアが佐東銀山城跡の見どころを紹介!

安佐南区にある武田山は、市街地から近く、手軽に登れる山としてハイキング客に人気の山です。

頂上からは広島市内が一望できるので眺めは抜群。

麓からも1時間程度で登れるので登山初心者にもおすすめです。

ただ、この武田山の魅力は頂上からの眺めだけではありません。

鎌倉時代~戦国時代にかけては、銀山城(かなやまじょう)と呼ばれる大規模な山城として活用されており、今でもその痕跡がたくさん残っています。

今回は武田山に残る銀山城跡の痕跡を詳しく紹介していきます。

佐東銀山城跡について

現在、武田山と呼ばれる標高410mの山には佐東銀山城(さとうかなやまじょう)というお城がありました。

「佐東」というのは、室町時代にこの地域が佐東郡(さとうごおり)と呼ばれていたためで、現代風に言うと「佐東町の銀山城」という感じになります。

銀山城はどんなお城だった?

銀山城はお城といっても広島城や姫路城のような多くの人がイメージするようなお城ではありません。

こういったお城は豊臣秀吉や徳川家康の時代に建てられたお城で近世城郭と呼ばれるもの。

銀山城はそれよりも前の時代に作られた城なので、天守閣や石垣はなく、自然の地形を利用した砦のようなものをイメージしてもらえるといいと思います。

参考イメージ:長野県にある荒砥城

銀山城は安芸国の守護(広島県知事みたいなポジション)が造った城なので山城としては非常に大規模です。

ただ、城内の曲輪(居住スペース)はそこまで広くないので、山頂で生活していた訳ではなく、普段は麓の館に住み、戦の時だけ山城に籠っていたのだと思われます。

銀山城の城主は?

では、銀山城の城主はどんな人だったのでしょうか?

銀山城を築城したのは武田信宗という鎌倉時代の武将で、毛利元就に攻め落とされるまで、代々武田氏が城主を務めています。

武田山というのは、城主の名前を取って名付けられているんですね。

歴代の城主の中で一番有名なのは武田元繁。

智勇に優れた武将として知られていましたが、有田中井出の戦いで毛利元就に敗れて戦死しています。

ちなみに安芸武田氏は有名な甲斐の武田信玄とは同じ一族です。

銀山城は難攻不落の城だった?安芸銀山城の戦いについて

銀山城は大規模な山城ということもあり、簡単に攻め落とせる城ではなかったようです。

銀山城史跡絵図「ふるさとやまもと」より引用

ただ、毛利元就は色々な策を講じて、調略で城番を降伏させたのも含めると、2回銀山城を攻め落としています。

とくに有名なのが1回目の銀山城の戦いで、毛利元就は千足のわらじに油をしみこませて太田川に流しました。

これを日が暮れた銀山城から見ると大群が大手道(祇園方面)に攻め寄せてくるように見えるので、武田勢は大手方面に兵力を集中させます。

そこで、元就は搦め手(お城の裏口で長楽寺方面)から一気に攻め上がって落城させたといわれています。

現在、広島市東区戸坂に千足という地名があるのですが、この地名は元就がわらじを流した場所にちなんでつけられたと言われています。

また、銀山城周辺には沢山の寺院があり、それが防衛網を作っていました。

(当時の寺院は軍事的な用途でも使われていました。)

その代表が長楽寺で、毛利勢が攻めてきたら鐘をついて知らせることになっていたのですが、元就は長楽寺の僧を調略して味方につけていました。

文献によっては安佐南区相田にある正伝寺を調略していたと書かれているものもあるので、元就は武田山を北の搦め手から攻めることを計画し、早くから周辺の寺院を調略していたようです。

この戦いで銀山城は落城。

城主は自害し、武田の残党は山を下りて逃亡します。

長楽寺の近くには落ち延びた武田の残党が隠れたとされる場所や、捕らえられた武田家臣の終焉の地が残っています。

武田山(銀山城)の埋蔵金伝説

実は銀山城には埋蔵金に関する伝説が残っています。

それは城が落城する際、武田家の家臣が再起の時の軍資金にあてるため、黄金の茶釜を埋めたというもの。

場所としては安佐南区上相田地域(諸説あり)と言われ、黄金の釜を埋めた目印に白南天の木を植えたとされています。

もしかすると、今も城跡のどこかに黄金の茶釜が埋まっているのかもしれません。

武田山の登山ルートや所要時間を解説!

武田山の登山ルート(登山口)は大きく分けると6か所あります。

  • 上安ルート(東亜ハイツ登山口)
  • 安東ルート(武田山墓苑登山口)
  • 大町ルート(大町団地登山口)
  • 古市橋ルート(祇園北高校登山口)
  • 祇園ルート(武田山憩いの森登山口)
  • 安芸長束ルート(鹿ケ谷ふれあい広場登山口)

この中で一番おすすめなのは武田山憩いの森から登るコース。

近くに無料の駐車場があり、道も整備されているので比較的上りやすいです。

武田山の登山ルートマップはこちら

また、この道が大手道だと言われているので、効率的に史跡を巡りながら登山することができます。

所要時間はゆっくり登って45分くらい。

次の項では大手道から武田山に登山した時の様子を紹介します。

歴史マニアが銀山城跡の見どころを紹介!

登山は武田山憩いの森からスタート。

すぐ近くに駐車場があるので、入口までは車で来ることができます。

今回の登山ルートは下記のような感じ。

大手道とされる道を登っていきます。

大手道~馬返し

登山道に至るまでの道のりには石垣がチラホラ。

後世に造られたものかどうかは分かりませんが、憩いの森に着くまでの道には石垣で区切られた畑などがあります。

おそらく当時はこの辺りに城主や家臣団の屋敷があったはずなので、発掘調査が行われると面白い発見があるかもしれませんね。

登山道はこんな感じ。

途中の道にはロープが張ってあったり、山を切り拓いた道があったりと、いかにも戦国時代初期の山城といった雰囲気があります。

しばらく歩くと頂上への道と馬返しの分岐点(大手別れ)へ到着。

まずは右に曲がって馬返しを目指します。

大手別れから馬返しへの道はこんな感じ。

当時は樹木がなかったはずなので、かなり見通しが良かったと思われます。

馬返しはかなり広めの曲輪(山を削って造った平地)。

案内板には「ここから先は通路が険しくなっているので馬を返した場所」と説明があります。

おそらくここが番所(見張り番がいる場所)になっていたのでしょう。

馬返しから市内も一望できるので、見張りと登城者のチェックをなどを行う、かなり重要な防御施設だったのではないかと思います。

大手別れの交差点も堀切(尾根の途中を掘り下げて造った堀)になっているので、馬返しが重要な拠点だったことが分かります。

大手別れまで戻ったら、さらに山を削った道をさらに進んでいきます。

銀山城の見どころ「御門跡」

石がゴロゴロと転がっている坂道を登ると、御門跡に到着します。

案内板には「近世城郭の桝形の原型として注目される」とあるのですが、これはどういう意味なのでしょうか?

桝形というのはお城の入口を石垣などで囲って作った小さな広場のこと。

江戸城などの近世城郭ではよく見られます。

江戸城桜田門:手前の門を入った空間が桝形

銀山城の桝形はこれの小規模なもので、登城路を登って来た敵が直角に曲がるように道を作り、その先に門を作って身動きができなくなるようにしてあります。

下記の写真でいうと、右側から登って来た敵は90度向きを変えて写真の奥の方に進むことになります。

ただ、この岩に挟まれた部分に城門があると先には進めませんよね?

門跡のイメージ図

ここで立ち止まった敵に向かって、城兵が石の上から一斉に攻撃できるという造りになっています。

※上の写真はイメージ画像をあてはめたものですが、当時はイラストのような瓦を使った城門ではなく、茅葺のような簡易な門だったと思われます。

御門側からすると桝形を見下ろす形になるので、弓矢などを使って攻撃しやすいことが分かります。

現在は石が散乱している状態なので、これは破城された痕跡で、当時はもう少し石組みがハッキリと組まれていたのかもしれません。

※江戸時代の島原の乱の後に、全国の城の取り壊しが行われているので、もしかするとその時に取り壊しがあったのかも?

御門を進んだ先から振り返ってみると尾根に沿ってまっすぐな道があります。

古写真を見たことがあるのですが、この部分も当時は樹木がなかったので、頂上から御門の様子がよく見えたようです。

千畳敷~観音堂~上高間~弓場跡

さらに進むと千畳敷に到着。

案内板によるとここに本丸があったとのこと。

確かに広いことは広いですが、沢山の家臣が居住して生活ができるような広さではないので、合戦時にだけ城主が詰める館のようなものが建てられていたのではないかと思います。

※銀山城は発掘調査が行われていないので、詳細についてはほとんど分かっていません。名称なども言い伝えによるものが多く、その中には意外と適当な部分もあるので、自分であれこれイメージしながら、登ってみるのがおすすめです。

千畳敷近くには弓矢の材料になる矢竹がたくさん植えられています。

千畳敷を少し進むと巨石が増えてきます。

頂上は目の前なのですが、少し寄り道してみます。

分かれ道を左に進むと、山の尾根を掘って高低差を付けた堀切があります。

堀切を超えると観音堂と呼ばれる場所に到着します。

観音堂は頂上の館跡とされる場所とほとんど高さは変わりません。

先ほどの堀切で区切って独立させてあることを考えると、ここが戦に敗れた際は最後に籠る場所になるのではないかと思います。

家臣一同が集まって最後に自刃する場所…。そう考えると観音堂が建っていたというのも頷けますね。

観音堂から少し下ると上高間という場所に着きます。

ここからは広島市内が一望できて眺めは最高。

おそらく見張り台としての役割を果たしていたんでしょうね。

ちなみに銀山城が造られた時代は、下記の写真に写っている大部分が海だったといわれています。

その名残なのか、今はどう考えて海とは無縁の祇園に「帆立」と呼ばれている場所が残っています。

観音堂へ戻って裏手にある弓場跡へ。

ここには地元の方が作られた弓矢を使って的当て遊びができます。

おそらく神社などで授与される守護矢(破魔矢?)を流用しているのですが、こういったものを見ると地元の方々が試行錯誤しながら武田山を盛り上げようとされているのが分かります。

山頂の館跡

元のルートに戻って頂上に到着。

頂上からは広島市内を一望でき、遠くに宮島を見ることもできます。

頂上の館があったとされる場所。

巨大な岩があって建物が建てられるスペースは限られているので、簡易的な建物しかなかったのではないかと思います。

ただ、小規模ながらも色々な施設があったようで、頂上には人の手が加わった痕が沢山あります。

雨水を溜めるために作られたと思われる「鶯の手水鉢」。

その他にも木の柱を埋め込んだと思われる加工痕を複数の岩に見つけることができます。

下の画像の左側に加工痕のある岩があるのですが、

当時は次のような感じで扉や塀が作られていたのではないかと思います。

銀山城の建築物の想像図

こういった隙間にも扉があったのかも…?

銀山城の建築物の想像図

あと、館跡にあるこの大きな屏風のような岩。

凄く特徴的な形をしているので、戦の時はこの岩を背にして軍議などが行われていたのかもしれません。

合戦時の想像図

犬通し~見張り台

館跡から見張り台の方に進むと、急な高低差が付けられています。

さらにその先には「犬通し」と呼ばれる堀切。

館跡周辺は主要部分というだけあって、防備が厳重になっています。

さらに少し歩くと見張り台に到着。

岩の上には加工痕が残っているので、ここに櫓台を立てて監視していたものと思われます。

武田山(銀山城)に登った感想&山頂の岩についての考察

今回は武田山をハイキングなどのレジャーの側面からでなく、史跡・銀山城跡という側面から解説してきました。

ただ、実際に登ってみて思ったのは、銀山城頂上の館跡は祭りごとが行われていたスペースではなかったのか?ということです。

ここからは完全に想像(妄想)ですが、頂上には明らかに人工的に作られた石積みがあります。

この石積みは軍事や防衛に関するものというよりは、信仰などの祭壇のように感じました。

代表例がこの「御守岩」と呼ばれる岩。

よく見ると大きな岩の上に、明らかに人の手で「御守岩」を乗せてあります。

下から見るとこのような感じ。

見ようによっては、信仰に使う祭壇のようにも見えませんか?

今は朽ち果ててなくなってしまったそうですが、実は「御守岩」の上には戦前まで小さなお社があったそうです。

鳥居があったという話も聞いたことがあるので、「御守岩」という名前からも分かるように、もしかすると岩自体がご神体として祀られていたのかもしれません?

側にあるこの岩はお供え物や神事の道具を置くためのもの。

鶯の手水鉢は儀式に使う水を汲むためのもの。

御守岩の向かいにある屏風岩(勝手に命名)は祭場と防御施設のの区切りをつけるためのもの。

そう考えると、信仰の場所であったような気もしてきませんか?

どことなく宮島の弥山の頂上と似ているような気もします。

宮島弥山の頂上

本当のところは分かりませんが、もしかすると武田山の山頂は神聖な祈りの場として使われていたのかもしれませんね。

この記事で武田山に興味を持ってもらえたら、ぜひ現地に行ってみてください。

この記事を書いた人

スターストック編集部

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