三原城は「続日本100名城」に選ばれた海城の跡で、広島県三原市にあります。
築城したのは毛利元就の三男で小早川家を継いだ小早川隆景。
水軍を指揮するには海に近い方が便利だという事で、それまで本拠地にしてた新高山城よりも海に近い三原要害と呼ばれる場所に三原城の築城を始めたようです。
今は埋め立てが行われて当時の面影はありませんが、築かれた時は城が海に浮かんでいるように見えたため、浮城とよばれていました。
三原城を写真で紹介
現在の三原城には、小早川隆景が築いたとされる立派な石垣(天守台)が残っています。
以前、三原城の周囲は建物で埋め尽くされていましたが、2011年から発掘調査が行われ、西国街道の跡や門の土台となる石垣が復元整備されています。
この石垣は後藤門と呼ばれる門の遺構で、近年復元されています。
その他にも、西国街道の土砂が堀に落ちないようにするための石列なども発掘されています。
当時は、このように段差を設けることで、堀に砂が落ちるのを防いでいたようです。
三原城の見どころは天守台と呼ばれる見事な石垣。
小早川隆景は新高山城の石垣を運び出して三原城に転用していて、説明版には、広島城の天守閣が6つも入る広さであると書かれています。
三原城はお城の真上に山陽新幹線の線路が通されたため、館などがあった本丸の遺構はほとんどが駅の下に埋まっています。
この角度から見ると、石垣の上に三原駅のホームが建てられていることが分かります。
ホームの下に三原城の石垣があるという不思議な光景。
そのため、三原城の天守台に行くには、三原駅の中を通っていく必要があります。
三原駅に入ると「天守台跡」への案内板があります。
階段を上って天守台入口へ。
この三原駅の2回のスペースは、かつて三原城の御殿などがあった本丸の下段にあたると思われます。
本丸下段から階段を上って上段(天守台跡)へ。
階段を上がると、すぐに土塁のような城跡の遺構が見えてきます。
天守台跡にある案内板。
天守台跡はかなり広く、段差があるのは当時の名残ではないかと思います。
建物や当時を思わせる遺構は皆無。
「国指定史跡 三原城跡」とかかれた、レトロな看板だけがあります。
古写真を見ると、当時の天守台は多門櫓で囲まれ、その間に3つの二重櫓があったようです。
天守台から西国街道(発掘調査が行われた場所)を見渡すとこのような感じ。
街道を行き交う人を監視するのに最適な造りになっています。
天守閣がなかったのに天守台?
現在、三原城に残っている石垣は天守台と呼ばれています。
しかし三原城には、天守閣が建てられていませんでした。
三原城を描いた古絵図と現在の三原城を比較するとこのような感じです。
絵図を見ても分かるように、天守台と呼ばれている場所に天守閣は建っておらず、本丸の石垣の一部でしかないことが分かります。
案内板に「広島城の天守閣が6つも入る広さ」とかかれていると説明しましたが、三原城の天守台はそもそも天守台ではないので、広島城の天守閣の大きさと比較するのもおかしな話ですよね。
古地図に天守と記載されているものもありますが、これは石垣の形状が天守台に似ていたからだと想像(江戸時代に描かれた絵図の曲輪の名称などは不正確なものが多い)。
「天守台=天守閣が建っていた石垣」と考えると、三原城の石垣を天守台と呼ぶのは、ちょっと疑問が残るところです。
三層の天守が築かれていたという説もあるそうですが、絵図に描かれている櫓と同じような小規模のものだったのではないかと思います。天守台の発掘調査が行われれば新たな発見があるかもしれませんね。
三原城周辺の見どころ
本丸中門跡
三原の市街地には三原城の石垣や舟入の遺構が所々に残されています。
本丸から少し南に下ったところにあるのが本丸中門跡。
当時の石垣がそのまま残され、現代の建物と合わせて上手に活用されています。
隆景広場
三原城天守台の横、三原駅の裏手に「隆景広場」と呼ばれる小さな広場があります。
ここにあるのが小早川隆景の像。
吉田郡山城や大朝の枝の宮八幡宮にある、甲冑姿の毛利元就や吉川元春の像とは異なり、隆景の像は毛利家の名宰相といった感じ。
三原城に来たら忘れずにチェックしておきたいスポットです。
他にも三原城周辺で見どころがあればコメントで教えてください。