【新高山城】小早川隆景が築城した名城の見どころを紹介!

新高山城跡は小早川隆景が標高197.6mの山に築いた戦国時代の山城の跡です。

小早川家の本拠地は沼田川を挟んで対岸にある高山城でしたが、隆景が小早川本家を継いだ後、新高山城を築城して本拠地を移転しています。

その後、三原城を築城する際に新高山城の石垣の石を運び出して転用したと伝えられていますが、現在も石垣や曲輪、井戸の跡など、当時の遺構を確認することができます。

「続日本100名城」に選ばれた名城で、見ごたえもあるのでぜひ訪れてみてください。

沼田川の右側が古高山城、左側が新高山城

新高山城へのアクセス&駐車場情報

新高山城へ車で行く場合は、本郷ICを利用すると便利です。

ICを下りて北東へ進み、沼田川が見えたら手前の道を右折します。

川沿いの道をしばらく進むと、「沼田本郷の天然水」と呼ばれる水汲み場があるのですが、その真横にあるのが新高山城跡になります。

対岸に見えるのは古高山城。

そのまましばらく進むと新高山城跡登山者用の駐車場が用意されていて、10台くらい止められる広さがあります。

駐車場の入口には観光用のパンフレットが置いてあり、新高山城、高山城、小早川隆景に関する3種類のパンフレットが手に入ります。

また、新高山城の御城印は三原駅にある観光案内所で購入することができます。

駐車場から50mくらい際に登山道入り口の看板があります。

新高山城の見どころを紹介

この道が新高山城の大手道。

しばらく歩くと案内板と登山用の杖が用意されています。

案内板のイラストを見ると、毛利氏の本拠地である吉田郡山城(隆景が産まれた城)と同じく、最高所を主郭として、全山を要塞化した大規模な山城であることが分かります。

登山道を途中で左に曲がると、鐘の段につきます。

鐘の段は土塁を設けた曲輪があり、中世初期の独立した山城の形態をしているため、新高山城の中でも築城年代が古いとされています。

新高山城は、隆景が築城する前には古高山城の副塁のような役割があったとされているので、もしかすると鐘の段が隆景築城以前の遺構なのかもしれません。

次に見えてくるのが番所跡(警備の兵士が常駐しているところ)。

敵が攻めにくく、城兵が守りやすいように設計された番所跡

登城路を進むと右側が番所跡になっていて、敵が場内に進入した場合は側面から攻撃ができるようになっています。

番所は三段に分かれていて通路には低い石列が残っているので、当時はこの部分に石垣が築かれていたのかもしれません。

そう考えると、防衛上でとても重要な拠点だったことが予想されますね。

番所の中は土塁で囲まれています。

石列もあるため、区画を区切って建物が建てられていたのではないかと思います。

通路側の土塁には石が散乱しているので、土塁を石で強化して石塁にしていたか、石垣の後ろに詰める栗石(ぐりいし)だった可能性があります。

番所を過ぎると開けた場所に到着します。

毛利元就を弔うために建立された匡真寺跡

ここは、父・毛利元就の七回忌、母・妙玖の三十三回忌の時に隆景が建立した匡真寺跡(きょうしんじあと)と呼ばれるお寺の跡です。

かなり広い曲輪で庭園跡もあることから、匡真寺はそこそこ大きなお寺であったことが分かります。

この辺りの造りは、万願寺や興禅寺を城内に取り込んでいた吉田郡山城と似ていますね。

案内板には法会を盛大に営んだとあるので、元就や妙玖に対する思いの強さがうかがえます。

匡真寺は瓦葺きのお寺だったようで、足元にはたくさんの瓦が落ちています。

かなり形がハッキリしているものもあります。

北側には自然の岩を利用した庭園跡と思われる遺構が。

足元には湧水池もあるので、発掘調査が行われれば、色々な遺構や出土品が発掘されそうです。

敵の侵入を食い止める桝形虎口

さらに登山道を進むと進路が直角に曲げられた場所に着きます。

急に道が90度左に曲がって桝形虎口になっている

これ桝形虎口と呼ばれる形状に似ていて、進路を90度曲げて門の前に四角形の空間を設けることで、敵を攻撃しやすい構造になっています。

この角度から見ると、意図的に道が曲げられていることが分かります。

この石段の上には城門があったとされています。

城門が閉ざされていれば、攻撃してきた兵は自然と桝形スペースの中に集まることになるため、それを城内から集中攻撃できるように作られています。

実際に城内から桝形スペースを見るとこのような感じ。

高い場所から弓や鉄砲を使って攻撃しやすくなっていることが分かります。

桝形虎口を抜けると中の丸(二の丸)に到着します。

中の丸は本丸の北側と西側に伸びていて、特に北側は石垣や土塁で区切られているのがよく分かります。

この石塁はかなり土に埋もれていて、木の根が張って崩れそうな部分があるので、崩れる前に発掘整備してほしいですね。

中の丸の西エリアから北エリアに入る入口には、石垣で区切られた虎口(出入口)があります。

おそらく、この部分には門があったのだと思われます。

中の丸から本丸に向かう道の横も石列で区切られています。

隆景が崩したのか?江戸時代の破城の痕跡か?本丸の石垣

新高山城の大きな見どころの1つが、中之丸から本丸に向かう途中にある崩された石垣跡。

小早川隆景が三原城を築城する際に、新高山城の石垣の石を運び出したという記録があるそうで、この石垣もその時に崩されたのではないかとされています。

ただ、石垣の角が崩されているので、石を運び出したというよりは、破城のために故意に石垣が崩されたという感じです。

あとで紹介する釣井の段、東の丸の石垣もきれいに残っていることから、隆景は頂上の主郭付近の石垣はそのままにしておいたのではないかと思います。

そして、一国一城令で各地のお城が破壊された時に、この石垣も崩されたのではないかと個人的には考えています。

写真では分かりづらいですが、中央より少し左側に石垣の角(算木積みのようになっている)があり、右側の石垣は崩された石や土で埋まっているだけのように見えます。

破城する時(石垣を崩す時)は石垣の角を崩すのが定番のようなので、発掘調査が行われれば破城の痕跡かどうかも判明しそうです。

この石垣の横に本丸へ続く通路があるので、石垣を横に見ながら本丸へ向かいます。

小早川隆景が暮らした居館があったと考えられる本丸跡

本丸はかなり広いスペースで、土塁や石列、建物の礎石を見ることができます。

写真の左奥が建物の礎石がある部分、右奥は詰の丸へと続きます。

石列で区画が区切られているので、見張り用の櫓台や簡易的な小屋というよりは、生活するための居館が建てられていたいたことが想像できます。

本丸跡の案内板。

毛利元就と毛利隆元が滞在したという記録があるので、この本丸で隆景から接待を受けていたのでしょうね。

露出している建物の礎石と思われる石列。

本丸の少し小高くなった茂みを進むと詰の丸へ。

いつの時代に誰が建てたのかは分かりませんが、沢山の石仏があります。

詰の丸からは城下が一望できるので、見張り台的な役割を持っていたのかもしれません。

新高山城から眺める古高山城。

眺望が良く、沼田川の様子もよく分かるので、水軍を指揮していた隆景には最適な城だったことが分かります。

飲み水を確保するために掘られた井戸が残る釣井の段

本丸から一段下がったところに釣井の段と呼ばれる井戸が掘られたスペースがあります。

本丸跡から釣井の段に下りるときに注意して見てもらいたいのが、下り口にある石垣。

とても良好な形で石垣が残っているのですが、進行方向と反対にあるので見落としてしまう可能性があります。

石垣は崩された形跡がなく、かなり土に埋まっている部分があるので、今見えているよりも大きな石垣が存在していそうです。

釣井の段は城内で一番広い曲輪で、合計6個の井戸が残っています。

籠城を想定することを含め、山上で生活しようと思うとこれだけの井戸が必要になるんですね。

釣井の段、東の丸に残るたくさんの石垣

釣井の段からは東の丸に使われている石垣を見ることができます。

東の段の石垣は保存状態が良く、そこそこ広範囲にわたって築かれています。

見落としやすい場所にあるので、石垣などの遺構が好きな方は忘れずにチェックしてみてください。

複数段に分かれた曲輪が見れる西の丸跡

本丸から中の丸を挟んだ反対側に、西の丸と北の丸があります。

ここでは複数段に分かれた曲輪を見ることができます。

本丸に比べると少し地味ですが、西の丸や北の丸も戦国時代の山城の特徴がよく分かる造りになっています。

新高山城の概要

城名新高山城(にいたかやまじょう)
所在地広島県三原市本郷町本郷
城主小早川隆景
駐車場麓の登山道入り口近くにあり
所要時間ゆっくり遺構を見て回って1時間~1時間30分
登山難易度★★★☆☆(普通)

この記事を書いた人

スターストック編集部

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