広島県のお土産として有名なもみじ饅頭。
宮島にはもみじ饅頭の老舗として有名なお店が数多く存在していますが、そもそも、1番最初にもみじ饅頭を作ったのは何処なのかご存知でしょうか?
そして、もみじ饅頭が誕生した由来とは?
今回は宮島に訪れる前に知っておきたい、もみじ饅頭が誕生した由来と、もみじ饅頭を最初に作った元祖をご紹介します。
もみじ饅頭誕生の由来
宮島の紅葉谷の入り口で今も営業を続ける老舗旅館『岩惣(いわそう)』。
もみじ饅頭の始まりは、当時の岩惣の女将さんが銘菓となるようなお菓子を作りたいと考え、岩惣にお菓子を納品していた高津常助さんにお菓子作りを依頼したのが始まりだとされています。
この高津常助さんがもみじ饅頭を初めて作った元祖となるのですが、饅頭のモチーフにもみじを使った理由には、ある人物の逸話が関係していたとされています。
その人物とは山口県出身の幕末の志士で、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文。
伊藤博文は宮島の弥山に祀られる三鬼大権現を厚く信仰し、度々宮島を訪れていました。
そんな伊藤博文が宮島での常宿としたのが岩惣で、ある時、伊藤博文が紅葉谷にあったお茶屋さんに出かけた時、お茶を出してくれた娘の手を見て「紅葉のような可愛い手を食べてしまいたい。」と冗談を言ったそうです。
この話を岩惣の中居さんから聞いた高津常助が考え付いたのがもみじ饅頭でした。
当時のもみじ饅頭は、現代のもみじ饅頭とは少し形が異なっていましたが、これを『紅葉形焼饅頭』として商標登録し販売したのがもみじ饅頭の始まりです。
つまり、もみじ饅頭の誕生には伊藤博文と老舗旅館の岩惣の人々、和菓子職人である高津常助が深く関わっていたことになります。
もみじまんじゅうの元祖と言われる高津堂
高津常助が高津堂として販売を始めたもみじ饅頭は一旦販売を終了しますが、2009年に再びもみじ饅頭の販売始め、現在では宮島の対岸で営業をされています。
元祖のこだわりなのか、看板には『もみじ饅頭』ではなく、『もみぢ饅頭』の表記。
入り口には当時の看板を復刻したものが設置されています。
改装されてあまり時間が経っていないからなのか、店内はとてもきれいです。
店員さんにお話を伺っていると、『レプリカですがこういったものもありますよ。』と教えてくれたのが下記の商標登録証。
お隣には当時使用していた、もみじ饅頭の焼型も展示されていました。
そして下記が高津堂の代表的なもみじ饅頭。
風にゆていている紅葉のように左右非対称で、少し尖っている印象を受けます。
味は当時の物を再現しているという感じではいのか、私の大好きなモチモチの生地でおいしいです。
この他にも様々な味や形のもみじ饅頭が販売されていて、元祖でありながらオシャレで若々しい印象を受けます。
高津堂は宮島には店舗がなく、フェリー乗り場からも少し離れた場所にあるので、実際に高津堂のもみじ饅頭を見かける機会はあまり多くないかもしれません。
その分、現地まで行って購入する価値はあります。
宮島で購入できるもみじ饅頭の一覧や食べ比べの様子などは下記の記事で詳しく紹介しているので参考にしてください。